【オープン社内報】子どもという存在と私たち大人の間にあるもの
法人内全職員に配信している代表コラムです(配信日:2023/3/22)。
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子どもという存在と私たち大人の間にあるもの
保育や発達支援の仕事に携わっていると、度々考えさせられることがあります。
「子どもの最善の利益」とは、そもそも何か。
保育所保育指針にも児童発達支援ガイドラインにも登場する言葉ですが、一言で表すような定義がなされることはありません。
検索してみれば分かりますが、子どもの権利に関する法的根拠の解説やウェルビーイングの論調で補足される、実にふわっとした概念です。
説明はできても定義づけはできない。
たくさんの人が口にするけれど、実は個々人の解釈に委ねられる標語にも近い文言のように思えます。
当社は「子どもの利益を最優先できる社会へ」というビジョンのもと、十人十育を実現すべく、小規模保育事業、児童発達支援事業、その二つを支えるきめ細やかな家庭的給食運営を行っています。
でも肝心の、子どもにとっての「利益」って何ですか?を共有できていないと、十人十育も法人理念もただの絵に描いた餅に終わります。
なので、子どもの利益というものをここで取り扱い、全職員の認識を共にしたいと思います。
まず前提として、子どもはいずれ大人になります。
日々の生活が「今の子ども時分における幸せ」だけでなく、「将来生涯に渡る幸せ」の両方に結びつくことに意味があります。
子どもは連続して成長していくので、順番もこの通りになります。
ここで少し視点を変えてみましょう。
「保育目標」という言葉があります。
児童発達支援の個別支援計画にも何らかの目標を設定するのが当然の基本フォーマットです。
でも、目標と目的は、似ているようで違います。
目標とは段階的な到達点であり、旗を立てた場所のことです。
それに対して、目的とは方向性のことをいいます。進む方向を指差して目指すものであり、その方向に進めているかどうかを確認するために目標を設定してその進捗を確認します。
目的は目標の上位概念であって、その目的がぼんやりしたままで目標を立てても達成する意味はほとんどなくなります。
はしごを掛けてせっせと登ったのに、肝心の行き先には絶対に辿り着けない、そもそもの「はしごの掛け違え」状態が起こります。
「子どもたちを〇〇に育てたい」
「〇〇ができるようになって欲しい」
子どもを思う気持ちに全く嘘偽りはないですが、将来生涯に渡る幸せを勝手に大人の尺度で目標を決めつけて押し付けていないか、考えるべき余地がそこにあります。
言い過ぎかもしれませんが、大人の「こうしてあげたい」という強い気持ちが子ども本人に必ずしもプラスであるとは限らない、そんな側面も心得ておく必要があります。
<保育の現場>
だっこしほしくて甘えたい子に、「もう3歳だし我慢を覚えた方がいいから..ここで抱っこしてあげると癖になっちゃうし…」と知らぬふりするのは、今の瞬間を代償に将来のメリットに果たしてつながるでしょうか?
<発達支援の現場>
望ましくない行為をした子に「周りにどれだけ迷惑になるかを分からせないと、後々この子が困るから」という思いから、厳しく制御して二度とさせないように叱りつけたら。本当にその子の将来生涯の幸せにつながるでしょうか。
保育でも発達支援でも、いちばん大事にしなければならないのは、その子自身の「心」です。
子どもという存在に対して「教えて育てる」姿勢だと、どうしても子どもの気持ちや個性をおざなりにしたコントロールするアプローチになります。
子どもが「知って・気づいて・試して・学んで・自ら育つ」主語を子ども自身に置き換えると、私たちの立場はコントローラーからコーディネーターになれます。
<コントローラー的だと>
靴を履くのにもたついてるAちゃんに、「靴を早く履かないと遅れちゃうし、難しそうにしているから履かせて”あげ”よう」
鼻が出ているBちゃんに、「嫌がるだろうけど拭か”なきゃ”(と、手早くガッと拭いてしまう)」
ドングリに興味を持ったCちゃんに、「割って中身がどうなっているかを見せて”あげ”よう」
<コーディネーター的だと>
靴を履くのにもたついてるAちゃんに、「地面に座ってるから履きにくいのかな?低い台座を持ってきてみよう」
鼻が出ているBちゃんに、「鼻出てるから拭く?自分で拭く?(と、その子の気持ちや選択を尊重)」
ドングリに興味を持ったCちゃんに、「割れているドングリをそっと置いておこう。あれ?ってなるかな🤭」
小さなようで大きな違いです。
微妙な違いですが、明確には、主語が違います。
コントローラー的な大人主導の保育・発達支援だと、子どもは大人が何かを「してあげる」存在という感覚で、教え諭す役に徹することへと気が向いていきます。
「こうした方が良い(大人の尺度)」「こうあってほしい・こうしてほしい(大人の期待)」が起点になりがちです。
それ自体が悪いとは言いませんが、そもそも、就学前の子どもに大人が期待する何かを過度に課することは、結構酷なことだと思うのです。
大人が思いつかないような創造力、大人よりも純粋な心を持った子どもたちに私たちがすべきこと、できることは何でしょうか。
大人の力を行使してコントロールして、正しいと決めつけた方向に進ませることだけが正解ではないはずです。
その子の個性が第一に尊ばれる環境からでしか、当の本人の最善の利益は得られないでしょう。
やってあげることは時に過介入になり、その結果で生まれた前進は、あくまでも大人の期待通りの成長です。もっと言うと、コントロールされた変化でしかありません。保育・発達支援の分野でご高名な故・佐々木正美先生はこれを”偽りの前進”と表現されました。
「子どもという存在と私たち大人の間にあるもの」
それを矢印で見立てると…
これまでは…
↑
大人
↓
子ども
・大人の都合で成り立っている社会
・大人優位な子ども観
・大人は子どもに対して権力的な存在
・しかる・しつける・強いるアプローチ(3S)
2018年度に保育所保育指針、幼稚園教育要領が改訂施行されて「子ども主体」が就学前教育のキーワードになりました。
それから5年。子ども主体を”真に”実現できている保育施設はどれほどの割合になったでしょうか。
昨今、不適切な保育に関するニュースを見聞きして、身につまされるような思いになります。
同時に、十人十育という理念、価値観、子ども観を共有した、私たちのような人間こそが保育・発達支援の仕事を担うべきなのは間違いないと自負しています。私たちがこの仕事をしていることは、社会からの要請です。自分たちの勇気と使命感に誇りを持ちましょう。
そして、この仕事を日々の喜びに転換できる文化が十色舎にはあるはずです。何より、目の前の子どもたちの笑顔と保護者様からの信頼で、日々の小さな苦労や大変さも帳消し…私よりも皆さんの方がその実感を持っていると思います。
子どもの最善の利益を保障できる唯一のスタンスは、
☆
↗︎ ↑
大人 子ども
・子どもの利益を優先できる社会
・子どもの個性を尊ぶ子ども観
・大人は子どものためにいる存在
・聞く・肯定する・心に寄り添うアプローチ(3K)
子ども目線で同じ☆を子どもと一緒に感じ入ることができる大人だけが、真の保育者・発達支援者であれる。そう思います。
以上